鳩ヶ谷の歴史は、先土器時代から始まりますが、原始・古代・中世の歴史については、近年まで未知の時代でした。しかし、昭和55年に実施した市内の遺跡分布調査と、その後、継続的に実施されている発掘調査により、その一部が序々に明らかにされつつありますが、不明な点も少なくありません。
 鳩ヶ谷は、古来より鎌倉街道、日光御成道(にっこうおなりみち)といった『政治の道』が通り、中央と地方を結んできました。そのことが鳩ヶ谷の歴史に与えた影響ははかり知れません。
 鎌倉街道は、鎌倉を起点として放射状に設けられた軍用道路で、『もの』の流通など、経済的にも重要な役割を果たしました。この鎌倉街道が鳩ヶ谷市内、もしくはその近郊を通過していたことで、中世の鳩ヶ谷は交通の要衝として発展をみました。街道が低地から台地に登り上がる地点に鳩ヶ谷が位置したことが交通の要衝とされた一因でしょう。鎌倉街道は、鎌倉幕府が滅亡した後も重要な幹線道路として利用され続けました。戦国時代になると、関東一円を支配下においた北条氏が鎌倉街道を利用し、本拠地である小田原を中心とする交通網を作りあげ、軍事物資の輸送や情報の伝達を迅速に行うため伝馬宿が設けられたので鎌倉街道が通る鳩ヶ谷では、多くの住人が伝馬役を負担したようです。今後の発掘調査によって、鳩ヶ谷宿の前史が具体的に明らかにされていくと思われます。
 日光御成道は、将軍が日光東照宮に参拝するために利用されていたので御成道と呼ばれていました。交通の要衝として栄えた鳩ヶ谷も近世的な宿駅として整備され、街道に沿って屋敷が並ぶ鳩ヶ谷宿の町並みは、この時に形成されたと考えられます。

明治時代になると、新たな道路行政が行われるようになりました。明治6年(1873)河港道路修築規則が分布され、旧日光御成道は二等道路に指定されました。
 さらに明治9年、国道・県道・里道の区分が定められると、県道に指定されました。
 一方、村々の生活の道は明治時代以降も利用され続けましたが、耕地整理や区画整理によって徐々に姿を変え、鳩ヶ谷町・市の都市計画に基づき絶えず改善の手が加えられ、現在に至っています。
 昭和42年3月1日、鳩ヶ谷町から鳩ヶ谷市が誕生し、市制施行日には盛大な記念式典が行われ様々な記念行事が開催されました。この間には、国道122号バイパスの完成・区画整理・住居表示の変更などがあり、市内の様子も大きく変わりました。


鳩ヶ谷が生んだ偉人

小谷三志(こたに さんし)


小谷三志は江戸時代の中頃、鳩ヶ谷宿に生まれ、不二道(富士信仰)を通して社会教育の実践をすすめた人です。
鳩ヶ谷に小谷三志の旧家(県指定)や小谷三志の墓(市指定)などが文化財として残っています。


大熊氏広(おおくま うじひろ)


大熊氏広は、江戸時代の末に八幡木で生まれ、明治の初め西洋の近代美術を学び日本彫刻界に大きな業績を残した人です。
大熊氏広の作品や遺品は郷土資料館に展示されています。


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